2022年1月1日土曜日

兵庫の地学散歩……大地を科学する:第七回 東六甲山麓の「残念石」:觜本 格(かがく教育研究所)


徳川大坂城の石垣

大坂城は豊臣秀吉が一五八三年(天正十一年)に築城を開始し、十五年以上かけて完成した。一六一五年(慶長二十年)に徳川家康による大坂夏の陣によって落城、天守閣は焼失し豊臣氏は滅びた。大坂城の再築に取り掛かったのは徳川秀忠で、完成までに十年の歳月を要した。再築というより新築に近い大工事で、現在の城の枠組みは大改修後のものである。
特に、総延長が一万一千二百㍍におよぶ石垣は、石割りと石組みの高度な技術を駆使して完成したものだった。豊臣大坂城の石垣は地下で発掘されたが、天然石を組み立てる「野づら積み」であったのに対して、徳川大坂城は成形した石を使った「切り石積み」であった。
工事にあたっては「天下普請」と呼ばれる方法で、幕府の大号令のもと、西日本の六十五藩の大名たちに工事エリア(丁場)が割り振られ、分担して請け負うことになった。
徳川秀忠は「秀吉のつくった石垣の倍の高さにするように」指示を出したとも伝えられており、文字通り幕府の威信を誇示する工事で、総数二百八十万個とも四百万個とも推定される石材が集められた。

運ばれなかった「刻印石」「矢穴石」

石材は小豆島や犬島、豊島など瀬戸内海一帯、生駒山地からも集められたが、半数は六甲山地の採石場から供給されたと考えられている。西宮市、芦屋市、神戸市東灘区の六甲山地山麓に「石切場」「石丁場」「石曳き道」「飯場」跡などが発見されている。「徳川大坂城東六甲採石場遺跡」である。
石を成型して割り出すための「矢穴」が残る「矢穴石」(写真1)や、工事を担当した大名の目印である「刻印」が刻まれた「刻印石」が六甲山地の山麓部から数多く見つかっている。刻印石の分布や地形などから「甲山刻印群」「北山刻印群」「越木岩刻印群」「岩が平刻印群」「奥山刻印群」「城山刻印群」などが設定されている。東灘区でも採石跡が見つかっている。(図)
 
写真1:六麓荘町浄水場の「矢穴石」

何らかの理由で大坂城の石垣として使われず途中で放棄された石材は「残念石」とも呼ばれている。
芦屋市では、集石場であり海上輸送の船着き場であった呉川遺跡から見つかった出雲松江藩堀江家の刻印石が芦屋市立美術館に野外展示されている。六麓荘町の浄水場敷地や芦屋大学校門の近くの石垣にも刻印石を「残念石」として見ることができる。西宮市では越木岩神社の境内や甲山八十八カ所めぐりなどに「残念石」がある。甲山森林公園内では二〇一八年に石丁場跡が調査され、国指定の史跡名勝の天然記念物として登録された。

土石流堆積物の石材・御影石

これらの石切場から運び出された石材は、どれもが六甲山地をつくる六甲花こう岩である。甲山森林公園の採石場のものを除き、その大部分は山地内部の岩盤から切り出されたものではないと思われる。山麓部に堆積した地層中のレキが運び出された。
六甲山地から流れ出す夙川や芦屋川、住吉川などで発生した土石流が運び出した石である。繰り返し発生した土石流は、山地から大小の花こう岩のレキを堆積して、扇状地をつくった。現在でもさまざまな大きさの花こう岩のレキからなる土石流堆積物が山麓部で確認できる。そのレキを利用して石垣を積んでいる建物も多数見かける。神戸市東灘区の住吉川近くの白鶴美術館の石垣(写真2)は見事なものだ。芦屋市六麓荘町の屋敷には現地で掘り出された花こう岩のレキを石垣として組み合わせ、庭園にもこの石を配置しているところが多い。
六甲山地の花こう岩の岩盤は激しく風化し、石材として適していないものが多い。土石流堆積物のレキなら、風化部分は削り取られ、目的の大きさの良質の石材を確保しやすい。運搬や積み出しにも便利なこの土地は、徳川大坂城の石垣の石材の最高の供給地となる条件を備えていた。

写真2:白鶴美術館の石垣

花こう岩が「御影石」と呼ばれるのは、この石材が御影の浜から積み出されたことに由来している。石屋川は御影石を加工する石職人が集まっていたことからついた名前である。
近年、敷地を分割し再開発をする工事がひんぱんに行われ、刻印石や矢穴石が見つかることも少なくない。また自然の土石流堆積物が分かりやすい露頭として出現することがあるが、工事の進展とともに、次々と失われていった。

写真3:芦屋病院前の「残念石」

芦屋市朝日ヶ丘町にある市立芦屋病院の前には、矢穴と刻印のある八㍍もの巨石(残念石=写真1)と土石流堆積物を自然状態で見ることのできる公園がある。貴重な遺跡だが、その解説がなく、草むらとなっているのは惜しいことだ。
(元神戸市立中学校理科教員・元神戸親和女子大学教授)

(兵庫民報2022年1月2日付)10:30