2021年2月21日日曜日

民主主義の日本めざして――「川崎・三菱大争議」100年:第七回「日本全国の労働者と資本家の争議」


田中隆夫(治安維持法国賠同盟兵庫県副会長)

一九二一年(大正十年)の川崎・三菱大争議の記録映像は、戦争終了まで官憲には極秘に大原社会問題研究所の井戸の中に隠されていた。一九五八年に再編集された映像が今、二十二分の『灯をともした人々』DVDに収録され、七月十日の数万人のデモの実際の映像も見ることができる。
暴力を伴う直接行動のサンディカリズムを排し、整然と続く労働者の大行進、市民の応援、新聞社の窓からのデモ隊へのビラ配布、神戸駅に到着する大規模な関西からの支援の群れ、同じ神戸でデモを経験する私たちには考えられない数万規模の参加者、見る人は感動し、心を奮い立たせる。
現憲法二十八条にある団結権、団体交渉権等やストライキ権は、一九〇〇年施行の治安警察法十七条では、仲間を労働組合に誘うことも含め、犯罪として処罰。その法律の下で、ゼネストに近い圧倒的な労働者の参加と市民の支援が行われた。
デモの指導者賀川豊彦の理論とサンディカリズムとは、資本主義を打破し、新しく築く社会の在り方では、同じ労働組合主義として多くの類似点があった。決定的違いは、その実現の手段を非暴力で行う点であった。また、争議の主導権を握った川崎・三菱造船所の組合は、日本で最も近代的労働者集団となり、暴力的直接行動ではなく、要求を基礎にし、二年前川崎ではサボタージュ闘争、三菱で四年前と二年前に組織的争議を経験していた。
大争議の最大の特徴は、二造船所労働者が友愛会神戸連合会を中軸に全神戸の未加盟労組、未組織も含め単一の大争議団を組織、非暴力で統制ある行動が展開されたことにある。個別経営の枠を越えた労資の階級対階級の闘いであり、日本で初めて労働者が階級として表に現れてきた争議であった。
歴史家落合重信は『増訂 神戸の歴史 通史編』でこう記した。
「惨敗したとはいえこのことはまた、労働者の階級的な力量と団結の力を誇示しながら資本家の政策に変更を迫る行為を堂々と展開、労働組合の成長ぶりを示したものであった。したがって一〇年争議はまさに『日本全国の労働者と資本家の争議』であった」
約千三百名解雇、約百名収監となったが、彼らは、関西圏で再就職は官憲の妨害にあい、全国の新たな地で労働運動や、地元に帰り新たな農民運動の担い手等になった。

国会での新動向
国会でも変化は起きた。野党憲政会党首加藤高明は、争議の最中七月、「議会の欠陥は、無産階級の代表がいないこと、議会で二極対抗で調和をはかるべし」と比例代表制の普通選挙を主張。社会権に基礎を置く社会政策により、労働者階級の体制内化を経済的に達成し、社会民主主義政党を育成すると考え、野党国民党と協同、普通選挙法立案に踏み切った。
神戸選出の野田文一郎は争議団に接触、二十日には「今回の争議は産業衰退が原因の失業問題で労働者が不安を感じた結果、団結権を要求した立法に関する争議」と報告し、立法対応を説いた。神戸選出小寺兼吉は、党神戸支部の決議「労働争議は、労働組合法案、疾病保険法案の通過で根本解決を。」と「姫路師団出兵反対声明」を紹介。神戸へ調査団を派遣し、三十日「産業衰退、貿易不振、失業続出、生活の脅威甚だしく、制度の欠陥とあいまって労資の争議を誘発し、労働問題への理解と方針のない政府の責任を問う決議」を党として採択。対して政友会・原敬内閣は、終始争議抑圧の対応であった。
憲政会は、争議終結後「争議の帰結点は①資本家は速やかに団体交渉権を認めよ②工場管理委員制度を樹立せよ③利益配分の制度をつくること、根本解決には立法措置を。」と社会政策の再検討を開始。一九二二年議会に、普選と共に、労働組合法案、失業保険法案、職業紹介所法改正案、疾病保険法案、工場法・鉱業法改正案の提出をする。

写真:示威行動は水泳大会など様々な形で行われた(『労働争議示威行動 写真絵葉書』川崎三菱大争議五十周年記念実行委員会、一九七一年復刻)

(兵庫民報2021年2月21日付)