![]() |
こむら潤さんがデザインした明石市営バス |
元気いっぱい小学校時代
小学校は尼崎市立成文小学校。「はだし教育」に取り組む小学校でした。遊具だけでなく塀に上って歩いたり、短距離走や跳び箱が得意なところは保育園でのびのび育ったからでしょうか。男の子にも負けていませんでした。一年生の夏休みに、自由研究で手作り絵本を出したのですが、翌年から「手作り絵本コンクール」が成文小の恒例行事になりました。大人になってから、「あれはあなたの絵本がきっかけだったんだよ」と恩師から聞いて驚きでした。
人生初のジェンダーの壁
市立大庄西中学校に進学、中学では生徒会に挑戦しました。一年生は書記を務め、二年生は生徒会長に立候補しましたが、同じく一年生から生徒会役員だった男の子も生徒会長に立候補。どちらも譲らず対決になりました。
思えば人生初の「ジェンダーの壁」だったかもしれません。歴代「会長は男子」の伝統は破れませんでした。
クラブ活動は、一年生は科学部に。男子ばかりのクラブでしたが、べっこう飴作りやミミズの研究など、面白い体験ができました。
明石市営バスもデザイン
二年生から美術部に。放課後にデッサンや想像画を描き、自分の世界に没頭する時間は、今思えば貴重です。進路は、美術を専門に勉強できる美術科コースがあるという県立明石高校をめざし、合格しました。美術科九回生です。
美術を志す仲間や個性的な恩師に囲まれ、毎日勉学に励みました。尼崎の自宅から学校まで約二時間を、時には大きな画材を担いで電車に乗って通いました。熱が出た時も一晩で熱を下げて翌朝には登校したり、苦労もありましたが振り返れば楽しい思い出です。
高校でも生徒会に入り、文化祭や体育大会の企画運営に励んだり、形骸化していた生徒総会のあり方を見直したりしました。
卒業すぐに、明石市営バスに私のデザインが起用され、昨年までそのバスが走っていました。
背水の陣で公立芸大に
我が家は自営業で下に弟二人がいる。経済的に公立大学しか受けられません。受験そのものに負けそうになりましたが、父の「大学は回り道のようだがそれも勉強のはず」という言葉に勇気をもらいました。
滑り止めで私立を受験してもどうせ学費が払えないので、京都市立芸術大学一本に絞り込み、「入試に落ちたら八百屋を手伝うしかない」と、背水の陣で受験に臨み、合格しました。大人になってから知人に「よく両親は芸術系への進路を認めてくれたね。私が親なら不安定な進路はやめてと言うわ」と言われ、あらためて両親が私を支え、夢を応援してくれている温かさに気付いたものです。
人形劇団くまごろう
私の子ども時代は、学校生活だけで語り切れません。重要なエピソードは「人形劇団くまごろう」の活動です。両親が若い時に人形劇サークルで出会い、結婚してアマチュア人形劇団「くまごろう」の活動を続けていたところ、他のメンバーが減って二人だけになってしまいました。そこで私たち三人の子どもも「私もやる!」と人形劇に加わってファミリー劇団として五人で活動してきたのです。
平日は、両親は八百屋、子どもたちは学校。夜に眠い目をこすりながら稽古や人形作りをして、休日は地域のイベントやクリスマス会などに呼ばれて公演活動。繁忙期は毎週休み返上でしたが、家族で一つのことを協力して成し遂げるのは快感でした。
私たち子どもが成人し多忙になってからは、両親ふたりで活動を続けていますが、声がかかると手伝っています。他にはない、特別な家族の絆だと思っています。
おかげさまで今でも、大勢の人前に立っても、あがったり物おじせずにいられるのは、こうした活動の賜物だと思います。人生、何がどこで役に立つかわからないものです。
(続く)
(兵庫民報2020年4月12日付)
《参考リンク》
「人形劇団くまごろう」(人形劇団クラルテWebサイトから)
http://www.clarte-net.co.jp/pre/prj_50anniv/atorie/htmls/kumagoro.html