記事を検索

2016年8月7日日曜日

ノーモアヒバクシャ近畿訴訟・傍聴記:2016-07-21

被爆の事実から逃げようとしつつ、原爆で死ぬとの思いとたたかって


副島圀義

七月二十一日は大阪地裁、二十二日は同高裁と二日続きました。

二十一日は原告の苑田朔爾さん(神戸市在住)の、二十二日には原告代理人・豊島達哉弁護士の、それぞれ意見陳述がありました。

いっぽう、国側は両日とも十五、六人もの訟務官が席を埋めながら、誰ひとり口を開かず、書面・書証を出すだけです(これは裁判の公開原則=憲法八十二条=を無視する態度ではないでしょうか?また、国民が国を訴える時は自己負担ですが、国は、原告をも含む国民の税金で裁判。おかしなことです)。

苑田さんの意見陳述

当時三歳十一カ月。長崎・爆心地から南へ四キロメートルの自宅で被爆。六日後、祖父が迎えにきてくれて、爆心地近くを通って峠越えして祖父宅へ疎開。途中、爆心地直近の川で水浴びをした。祖父宅で下痢したことを憶えている。

翌年、父の戦死公報が届く。被爆までは「元気過ぎて手に負えない」と言われていたが、小学校一年の時は首が曲がっている(後に頚椎症)、二年では肋膜炎、六年では微熱が続き一か月養生、中学二年で急性腎炎・一年間休学。疲れやすい、気管支が弱い、吐き気を催す…。虚弱体質がついてまわっている。

中学、高校の頃、旧友が原爆症に倒れ、席が突然空く体験を四度。過敏になり、原爆のことは聞きたくも考えたくもなかった。被爆の事実から逃げ回っていながら、「自分も原爆症で死ぬのか、三十歳まで生きられるのか」とばかり思っていた。

しかし、ベトナムでアメリカ軍が撒いた枯葉剤による惨状などを知る中で、次第に被爆の事実とも向き合うようになった。

四年前、ついに前立腺がんで全摘手術を受けたことで「体の不調と被爆体験とは無関係ではない。被爆が原因でがんになったことをはっきりさせたい」と原爆症認定申請に踏み切った。

できることなら生まれ変わって、三歳十一カ月からもう一度生き直してみたい。



翌日・高裁での意見陳述で紹介された次のことは、特に印象的でした。

―東京地裁での全員勝訴判決では、「現在も放射線が人の健康に及ぼす危険については十分に解明されていない」と、福島事故被災者生活支援法第一条を引いて、機械的一律的「線引き」を厳しく戒めた―

「原爆と原発、根は同じ」ということを、裁判所も確認しているのです。


(2016年8月7日付「兵庫民報」掲載)

日付順目次