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2015年12月6日日曜日

観感楽学

一九四五年八月、敗戦目前の九日未明、「満州」にソ連がなだれ込んできた。翌日、「満州国」政府要人と関東軍幹部は家族ともども首都「新京」から姿を消し、残された開拓団は殺戮、凌辱、飢餓にさらされ、子どもたちは「中国残留孤児」となった▼関東軍や政府幹部がどのようにして「撤退」を決定したのか? その瞬間に居合わせ、目撃した兵士が初めて証言した。季刊『人権問題』二〇一五年秋号の大島伸生氏の寄稿文「関東軍と政府が真っ先に逃げた」は、大島氏の父の証言で「この機密を市民に公表するのはまずい」と渋る父に「知りえた事実を歴史の証人として証言してほしい」と聞き出したものである▼十日早暁、関東軍司令官の非常招集で司令官、満州国総務庁長官、市長、「満鉄」、「満州電業」、「満州電電」、「満州重工業」の総裁による会議が開催された。席上、司令官が「万一の事態もありうるので政府と関東軍は満鮮国境に退避する。協力してほしい」と発言。一同沈黙ののち、「満鉄」総裁は「協力する」と答え、他の三社は「市民と生死を共にするため残る」と拒否した▼関東軍は「満鉄」の協力を得たことから、直ちに戒厳令を出して市民の足を止め、彼らはその日のうちに家族とともに逃亡したと語っている。忠男氏は新京に残り高碕達之助氏らとともに残留者の支援にあたった。戦後七十年、初めてこの事実を明かした忠男氏は百五歳、ご健在である。 (D)

(2015年12月6日付「兵庫民報」掲載)

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