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2015年11月1日日曜日

ノーモアヒバクシャ近畿訴訟・傍聴記:2015-10-22,23

被爆の実相への、ひどすぎる無知

副島圀義

十月二十二日(大阪地裁)、二十三日(高裁)と、二日分の傍聴記です。地裁では原告被爆者ご本人の証言。高裁では国側がたてた医師の証人尋問でした。

いずれも、被爆の実相を知らないし、知ろうともしない国の姿勢があらわになった弁論でした。

地裁 内田和子さんの証言から―


長崎。爆心地から南へ三・八㌔㍍で被爆(十三歳)。

いったんは近所の防空壕に避難したが二日ほどたってから佐賀県嬉野に疎開。両親、姉、弟といっしょに爆心地付近を歩き、道ノ尾駅(爆心地から北へ四㌔㍍)から汽車に乗った。途中の道では、右も左も遺体を積み上げて焼いていた。駅裏で野宿したが夜通し「水をくれ」の声が聞こえて、今も忘れられない。

神戸に来て三十代になってから頭痛、疲労感がひどくなり三十七歳で乳がんに。その後医師から「被爆者手帳は?」と聞かれてはじめてそんな制度があることを知った。すでに手帳をとっていた母や姉に調べてもらい、同じ内容の申請書を出して手帳をもらった。父は食道がん、母は肺がんで亡くなり、姉、妹、弟もがんや心臓病…。

嬉野への疎開の時期について、内田さんの記憶と、被爆者手帳申請書に書かれていることに一、二日の食い違いがあることが、国が病気と被爆との因果関係を否定するほとんど唯一の「根拠」のようでした。

「防空壕を出たのが何日かカレンダーか何かで確かめたか?」(原爆投下直後の防空壕にカレンダーがあるのか。内田さんは「そんなもの、あるはずがないでしょ」と)。

「電車がいつどこから動いていたか?」(弁護士から「汽車」と指摘されそこでは言い直してもまたすぐ「電車」と言います。その時代の交通機関についてのお粗末な無知ぶり)。

「なぜわざわざ爆心地の近くを通ってまで疎開しようとしたのか?」(いつまでも防空壕に居られないでしょう)。

などなど、少しでも原爆投下直後の長崎のことを知っていたら聞けるはずのない「尋問」。しかも「手帳申請書にウソを書いたのですね」「虚偽の申請だったら手帳の返納を命じられることも知っていましたね」と、まるで被疑者取り調べの調子(若い女性訟務官ですが、検事あがりか?)。

高裁 国側証人の医師尋問から―


心筋梗塞での原爆症認定訴訟で一審勝利した梶川一雄さん(故人)に対し、国側が控訴。この日は循環器の専門医を国側が証人にたて「梶川さんの心筋梗塞発症は被爆と無関係」と「立証」しようとします。医師と国側代理人は、医学上の専門用語を並べ「心筋梗塞発症の危険因子はたくさんあって、放射線の影響を考慮するまでもない」と言います。いままでの裁判ですでに決着済みの「いろいろな危険因子があったにしても、被爆がそれを増幅させたことは否定しがたい」ということへの「反論」にはぜんぜんなりません。

梶川さん代理人弁護士の「証人が危険因子としてあげた、善玉コレステロールが低いことや腎臓病自体が、被曝と有意な因果関係にある」との指摘には反論もできず。

「心筋梗塞について、被爆者集団と非被爆者集団との差違に関する疫学的研究業績をお持ちか?」と聞かれて「ありません」としかこたえられませんでした。

十一月二十七日には弁論終結の見込みです。

(2015年11月1日付「兵庫民報」掲載)

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