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小林聖さん |
命ないがしろにする企て許さず
宗教にはそれぞれの教えや信じているものに違いはありますが、基本的には、「命」「生きるということ」「幸せ」を軸にしているはずです。それをないがしろにするような働き、企てを宗教者として容認することはできません。
人類が犯しつづけている最も愚かしいものが「戦争」です。戦争のなかった時代はないぐらいです。「それが人間の性だ」といって受け入れてしまうのでは意味がありません。むしろ、「人間とは本来こうあるべきではないか」と宗教者が提示していくことが大事だと思います。
これは「政治的な発言」ではなく「信仰上の発言」なのです。
私たちキリスト者は、キリスト教の2千年間の歴史、そのなかで犯しつづけてきた過ち、その反省に立つということが必要です。ヨーロッパの国々がキリスト教国であった時代、世界のあちこちを侵略、植民地としてきたことを「よし」とは言えません。
日本の教会の歴史をみてもそうです。日本基督教団は、戦中の国家総動員法の枠組みのなかにある宗教団体法でつくられました。「国家の圧力でつくらされた」との認識を持つ人もありますが、キリスト教会は積極的に当時の動きに乗り、国の内外にさまざまな痛みを押し付けてきた事実を忘れるわけにはいきません。その反省のなかに、日本基督教団の戦後70年の歩みはあるのです。
時代のせいにしてはいけない、自分たちは何をしてしまったのか、何をしなかったのか、そこからもう一回、組み立て直していくと当然、「命」「平和」は私たちにとって大きな課題、背負わなければならない課題となります。
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不況など国民の生活が厳しい環境にさらされていますが、歴史的にみても、戦争は内側に抱える問題の爆発の力を「外敵」へ向かわせてきました。いま、それとまったく同じことがやられようとしています。しかし、安保法制の中身が知れ渡り、「生きて行くこと、生活していくことに大きくかかわる問題だ」と国民が気付き、運動が一気に盛り上がってきました。
法案は衆院を通過しましたが、絶望はしていません。希望の光は見えます。少なくとも国民が声をあげはじめています。「国民の理解がすすんでいない」と首相自ら言いながら強行採決する、このおかしさは、これまで政治に関心をもってこなかった人たちにも、「何を言っているんだ」と気付かれてしまった。そこまで追い詰めていますし、内閣支持率も急降下しています。そもそも今回の強行採決は、安倍政権の本質が国民に見抜かれはじめた事に対する「焦り」の表れでもあるだろうとも思うのです。
その意味では、今国会会期末までの2カ月間こそが、本当の意味での闘いなのだろうと思います。「命」「平和」を尊ぶ人たち、憲法を守り、民主主義を大切にしようとする人たちが、共に手を取りあって「怒り」の声をあげていく。その様な大きなうねりをつくり出せるならば、たとえ「60日ルール」によって法案が衆院に戻ったとしても、再可決を阻止する事も可能であろうと思います。
「いつか来た道」を歩くのではなく、むしろ今回の強行採決が安倍政権の「終わりのはじまり」であったと、後にふりかえる事ができるように、最後まであきらめることなく様々な人たちと一緒に運動をつくり上げ、また盛り上げていく事こそが、この日本という国で戦後70年を生きて来た者、すべての責任、責務であると思います。(
談)
(2015年7月26日付「兵庫民報」掲載)