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オスプレイが並ぶ普天間基地に見入る学生たち |
日本民主青年同盟兵庫県委員会は9月16~18日、沖縄戦や戦後の沖縄のたたかい、いま焦点となっている沖縄新基地建設反対のたたかいを学ぼうと「学生沖縄フィールドワーク」を行いました。神戸大、甲南大学、関西学院大学、神戸女子大学、神戸芸術工科大学などから8人が参加しました。
沖縄戦、戦後の沖縄・県民のたたかい――古堅実吉さんから学ぶ
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熱意込め学生たちに語り伝える古堅氏(中央) |
1日目(16日)は、元衆議院議員の古堅実吉さんに「沖縄戦をふりかえって、戦後の沖縄と県民のたたかい」を話していただきました。
はじめに古堅さんは「15歳のときに鉄血勤皇隊として動員された沖縄戦の生き残りです」と自己紹介したあと、「満州事変から始まった15年にわたる侵略戦争の帰結が沖縄戦だった」と沖縄戦の歴史的な位置づけや、沖縄戦の始まりから終結まで、戦後の沖縄のたたかいを時系列で詳しく話しました。
古堅さんは、首里城地下にある発電機の冷却用の水を外から汲んでくる作業中、那覇沖がアメリカ海軍の軍艦で海面が見えないほど埋め尽くされているのを目にし、「悲壮感があふれ、逃げ場がないと覚悟をした」と当時の思いを語りました。
一緒に作業していた友人が艦砲射撃によって次々亡くなっていったつらい経験や、鉄血勤皇隊に解散命令が出て一緒に逃げていた先輩が米兵に銃を突きつけられ捕虜になった経験を紹介。沖縄戦を「本土決戦の捨て石作戦だった。犠牲覚悟の長期化作戦で、そのために20万人もの人が亡くなった」と振り返りました。
戦後には沖縄が日本から切り離され、米軍が好き放題できるようになったことが今までの苦痛につながっていると指摘。日本国憲法が沖縄に適用されなかった中でポツダム宣言の実施を求めたたかう沖縄人民党が結成されたことには大きな意味があることや、サンフランシスコ講和条約が結ばれた1952年4月28日は日本全体をアメリカ従属に縛り付けた〝民族屈辱の日〟であり、当時の吉田首相の演説には今でも腹が立つと怒りを込めて話しました。
〝銃剣とブルドーザー〟で住民の土地を奪って基地が拡大されたこと、祖国復帰協議会を結成し初めての主席公選選挙で屋良朝苗さんを大勝利させたことも紹介しました。
最後に「72年の沖縄返還は〝核兵器も基地もない平和な沖縄〟というスローガンは達成されず返還は未完であり、復帰闘争は終わっていない。〝普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念〟を掲げた『建白書』をもってたたかう11月16日の沖縄県知事選は、必ず勝つ!」と強い決意を語り、学生一人ひとりと力強い握手を交わしました。
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学生からは、「沖縄戦が侵略戦争の帰結だというのはわかりやすかった。歴史をしっかり学ばないといけないと思った」「普天間基地が住民から土地を奪ってつくられたことに衝撃を受けた」「集団自決なんていうことが起こっていいのか。こんなことが起こる戦争を二度と起こしたくないし、負の歴史を繰り返そうという流れが今でもある社会を変えたい」と感想が語られました。
新基地建設反対のたたかい――普天間・辺野古など訪問
2日目(17日)は平和祈念資料館で、古堅さんから学んだ沖縄戦や戦後のたたかいを豊富な資料や体験記録で3時間たっぷり学び、3日目(18日)は普天間と嘉手納の基地やガマを見学。最後に辺野古の新基地建設に反対するテント村を訪問しました。
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辺野古新基地反対のテント村で話を聞く参加者 |
テント村では現地の人から、辺野古のたたかいの歴史やジュゴンやウミガメが住む辺野古への基地建設の道理のなさ、アメリカが戦後つくろうとした辺野古の基地をこんどは日本政府が肩代わりして基地を作ろうというアメリカいいなり政治の実態、基地をなくせば地元経済はもっと発展すること―などを学びました。
フィールドワークに参加した学生からは――
「たたかいがあったからこそ今の沖縄があるとわかった。来て良かったし、来たからこそリアリティを持てた。社会を変えるために頑張りたい」「知らなかったことも多くて、学習もかねて参加できて楽しかった」「学校で戦争について学んできたけど、現地でしか知ることのできないこともあった。足を運ばないと感じれないなと思った」
「沖縄の問題は沖縄だけじゃなくて日本全国同じ問題。これから自分にできることをやっていきたい」「辺野古で何年もたたかってきたことを知らなくて、初めて知った。基地があるから経済が発展するということをよく聞くけど、実際は違うということも分かった。今回学んだことを友だちにも話していきたい」
――と今後の意欲も語られました。
今回、学んだことを伝えていこうと10月25日には報告会を予定しています。
(力重智之=党県委員会青年学生部)
