福島の現実、語り伝えよう
兵庫県の青年・学生十三人が三月十五日から十八日、福島県でのボランティア活動を行いました。
時間が止まったままのよう:広野町・楢葉町で放射能被害フィールドワーク
十五日は一日かけて福島県へ移動。夜八時についたいわき市で一泊。十六日はマイクロバスに乗り込み広野町と楢葉町へ向かいました。
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伊東さん(右から二人目)とともに放射線量を測定 |
元福島県会議員の伊東達也さんのナビゲートで、放射能被害の実態についてフィールドワークしました。地震でかたむいたままの家や、増築の途中で組み立てた足場がそのままになっている学校の姿があり、まるで時間が止まったままのようでした。
原発交付金百三十億円で建てられたJヴィレッジは、今やサッカー競技上の面影はなく、原発労働者の拠点となっていました。「ここに来るとほんとに(サッカーの本場)イギリスみてぇだよなぁって、前はそんなところでした。今は芝生も全て剥がしてこのありさま」 と伊東さん。この施設にはプロサッカー選手を目指す少年たちが集まる寮付きの高校もありましたが、無残に自転車が残されていました。
町内いたるところに除染で出た放射能汚染物質をいれた袋が置いてありました。これは中間貯蔵施設がまだ建設されていないため、仮置き場や仮仮置き場、仮仮仮置き場として置かれているとのこと。以前から現地で原発反対運動を続けてきた宝鏡寺の住職・早川篤雄さんは自分の田んぼを「放射能汚染の収束のために」と率先して仮置き場として提供していました。
宝鏡寺では避難している間に賽銭箱が箱ごと盗まれ、池の錦鯉も約二十匹いたものが二匹しか残っていなかったといいます。町内の自動販売機もほとんどがバールでこじ開けられ、中身を取られていました。
伊藤さんは、「震災直後、日本人はマナーがあって立派だなどと言われていたが、こういう時にこんな犯罪をする人がこの日本にいるということも知っておいてほしい」といいます。
宝鏡寺周辺の空間線量は〇・八マイクロシーベルト。 除染が徹底されていない片隅にはホットスポットが残っており、三・五マイクロシーベルトを記録しました。
福島県の青年と交流
夜は福島県の青年と交流しました。福島の高校生は「学校では原発のことはほとんど話せない。やっぱり親が東電関係で働いていたりするから…」と深刻な実態を話しました。
「忘れられるのが怖い」:仮設住宅でざっくばらんに交流
十七日は仮設住宅の訪問と住民懇談会に参加しました。
午前中は、富岡町と川内村からの避難者が生活する南一丁目仮設住宅を訪問。どちらも帰町・帰村宣言が出され、仮設住宅からの退去が求められています。お米を持って訪問し、困っていることや、今後の生活をどうしようとしているかなど聞きました。
「二年経ってやっとコミュニティができたのに復興住宅でバラバラにされたくない」という声や、「家はもう二年間放置しているから、動物の住処になって荒れてる。そんなところに帰れない」など、今後の生活の見通しが全くみえない現状が語られました。
仮設住宅にはコミュニティセンターがあり、体操やお茶会が定期的に開催され住民同士のコミュニケーションの促進に役立っていますが、このセンターにすら行けないという人もいることも分かりました。入居の際、集落単位ではなく、町単位でくくったため、「知らない人ばかりだから行くに行けない」と足が遠のき、二年たった今でも近所の交流がないとのことでした。
午後からは緑が丘仮設住宅で住民懇談会を開催しました。福島のボランティアセンターの方もこの試みは初めてとのこと。ざっくばらんに交流しました。
この仮設住宅では、当初お風呂の追いだき機能がなかったり、板一枚の床のため厳しい冬をしのげないなど、要望を聞き取り行政へ届けて住宅環境の改善が図られてきました。今回の懇談では、最近、天井が落ちてきているということが被災者から話されました。集会場自体も天井がたゆんできていました。
空き住戸も見せてもらいました。結露しやすいようで、畳やカーペットはカビが生えていました。
兵庫県から来た青年への要望として口々に語られたのは「福島のことを忘れられるのが怖い」ということ。「ぜひ兵庫県に帰ったらここで見て聞いたことを伝えてください」と訴えられました。
ボランティアに参加したメンバーは、「帰ったらここで見聞きしたことを話したい」「自分に何ができるのかと思っていたけど、福島の現実をより多くの人に伝えることなんだと思った」と、ボランティア報告会開催へ準備をすすめています。
(2013年4月14日付「兵庫民報」掲載)