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2013年12月8日日曜日

西村欣治郎のたたかい(下)

治安維持法の犠牲となった関西学院生


西村欣治郎の肖像
田中隆夫文化運動でも統一の流れが生れ、一九二八年の三・一五弾圧の直後、三月二十五日に全日本無産者芸術連盟(ナップ)が誕生した。機関誌「戦旗」を発行し、プロレタリア文化運動の質と量で新高揚を作り出す。「一九二八年日本の文壇はプロレタリア文学によりリードされたかのごとき観を呈した」(蔵原惟人)。

これを受けて、結成者の一人久板栄二郎(黒澤明監督「わが青春に悔いなし」「天国と地獄」を脚本)が、関西へ派遣され、西村の叔母みつの下宿屋を拠点に、ナップ関西委員会が久板、西村、林田光利、大岡欣二などで発足、「戦旗」読者づくりを軸に関西の文化運動の組織づくりが始まった。

西村は、兵庫県下と文化人の組織化で先頭に立った。大岡は演劇活動を組織する。西灘村上野通に拠点を置いた「戦旗」神戸支局は、関学、神戸高商、高砂、姫路、県商、神戸製鋼、ダンロップ、川造、三電、市電、大丸、三越などで班を組織。これが、弾圧や西村の死後も、満州事変以降の反戦闘争と日本共産党支部づくりに生きた。

創刊以来の「戦旗」読者、宝塚歌劇団の指揮者須藤五郎は宝塚のレビューが権力に媚び、軍国主義賛美とエログロ、ナンセンスの方向に流されるのを悶々としていた。

音楽家三名、背景画家三名と語らい、西村を講師に科学的社会主義の学習会を月二~三回ではじめ、須藤は、党への寄付金を毎月三十円(大学卒で八十円の給料時代)、西村に渡した。西村の依頼で党幹部三名を長期に匿うが、三十年二月特高が須藤宅に踏み込み検挙された。

須藤は解雇されるが、校長小林一三は、復職を求め、その後宝塚の黄金時代を築く。

須藤は「私はいささかも後悔しない。私が困難を覚悟で守ったのは党である。日本共産党であった。私こそ、私の目を開いてくれた党に感謝しなければならぬ立場である」と自伝に書いている。須藤は、加古川東高校校歌や姫路、豊中市歌を作曲、戦後、日本共産党参議院議員になっている。

西村は地下活動に入り、卒業直前「除籍」になり、一九三〇年七月十六日東京市外で逮捕・大阪へ移送され、拷問と虐待のため発病した。一九三一年十月二日大阪北区若松町未決監で「脳溢血」で獄死とされていた。二十九歳であった

拠点となっていた下宿屋には「一切、特高は来なかった。欣治郎は、拷問に屈せず口をわからなかった」との叔母みつの言葉が伝えられている。

三回忌の集合写真(1933年)

一九三三年の三回忌の集合写真が戦前から実家の仏壇の上に置かれていた。親族とともに青年五名が写っている。宝塚歌劇団のメンバーの女性もいると伝えられている。
(終わり)
(治安維持法犠牲者国賠同盟兵庫県本部幹事)

(2013年12月8日付「兵庫民報」掲載)

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