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2013年12月1日日曜日

西村欣治郎のたたかい(中)

治安維持法の犠牲となった関西学院生

田中隆夫

西村欣治郎
西村欣治郎の叔母が大阪守口町森小路で下宿屋を営んでいたが、そこに京都大学哲学科院生をへて専門学校講師であった梯(かけはし)明秀がいた。

マルクス主義を学び始めていた梯は、西村から活動と哲学の両面から影響を受け、京大二年先輩で、神戸商業、同志社女子専門学校講師の戸坂潤を紹介し、三人の活動と哲学の思想的交流が始まった。

一九二九年、西村は、関西学院哲学会会長となり、戸坂を「科学の歴史的社会的制約」と題した哲学会講演会講師として招聘する。

戸坂潤
関学後輩の草野昌彦は、戸坂潤講演に感動し、戸坂が東京の法政大学講師へ赴任した後を追い、法政へ入学する。「回想の戸坂潤」で、「戸坂先生に私を結びつけたのは、実はこの西村君だったのである。私は戸坂先生を思い出すたびに、西村君を思い出すのである」と書いた。

梯も戸坂も、西村と会った時は、科学的社会主義の立場ではなかった。草野は、一九二八~九年の西村との交流の時期に、その立場を鮮明にしたのだと明かしている。実践面でも二人は西村の要請で、党幹部の居住を提供し検挙される。

戸坂、梯の検挙後五カ月して、西村は東京で検挙され、一年三カ月後、獄死。一九三二年、戸坂が東京で唯物論研究会を開始した時には、世にいなかった。その年、法政で、戸坂から草野は西村への強い思いを聞いている。西村の哲学者としての意志は彼らに受け継がれた。

唯物論研究会は、唯物論研究に関心を持つ人の学術団体として公然と発足。社会科学、自然科学、哲学などの諸部門に分かれ、機関誌「唯物論研究」は当初四千部発行。会員二百五十名「唯物論全書」を毎月平均二冊計六十六冊発行。

日本の唯物論研究は事実上、唯研の創立から始まった。エンゲルス「自然の弁証法」(甲南高校出身の加藤正・加古祐二郎訳)、レーニン「唯物論と経験批判論」も一九二〇年代末に訳がでた。

「唯物論」という公然たる集団旗が日本思想史の一角に掲げられ、六年間その闘いは勇気ある力により押し進められた。戦争とファシズムの時代、唯物論の旗の下の「科学的精神」は、天皇制と侵略戦争との賛美を上から強制する文部省の神話的、神がかり的「教学精神」に正面から対決するものであった。

国家総動員法発令の年一九三八年十一月末、全国で唯物論研究会関係者が検挙された。戸坂はじめ百二十四名。兵庫では伊豆公夫、鳥井博郎、三木繁、石原辰郎、長井一男、赤松啓介らである。戸坂は、裁判闘争を獄中続けたが、長崎原爆投下の酷熱の日、長野刑務所で獄死。四十六歳であった。(つづく

(治安維持法犠牲者国賠同盟兵庫県本部幹事)

(2013年12月1日付「兵庫民報」掲載)

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