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2013年3月3日日曜日

三陸海岸の街や村はいま:写真リポート展


宗景 正(日本リアリズム写真集団阪神支部)

耳を引き裂く様な戦闘機の爆音が聞こえていた。自衛隊三沢基地がすぐ近くにあるのだ。二〇一二年十二月十七日、私は青森県三沢漁港に立ち、海岸線を南下して、3・11東北大震災被災地を訪ねようとしていた。

三陸の海岸に面した集落は、そのほとんどが消えていた。岩手県野田村の海岸沿いにある小高い丘には倒れた石碑がいくつかあった。海面からはおよそ二十m。一九三三(昭和八)年三月の昭和三陸津波被害の状況の記された震災記念碑までもが被害を受けて倒れていた。気仙沼市唐桑の碑には「昭和八年三月三日 大震嘯災記念碑」「地震があったら 津波の用心」と書いてあった。過去に何度となく津波に襲われたこの地が、またしても大きな被害を被ったのだった。

宮古市田老地区には、昭和三陸津波の後、一九五八年から六~十mの分厚いコンクリートの防潮堤が築かれていた。海面からは十m。上に登ると足がすくむほどの高さだ。しかし、津波は呑み込むように堤防を壊し、超え、家を流し、人々の命を奪った。大きな堤防に守られているという安心感と、集落からは、押し寄せる津波が見えなかったことが被害を大きくしたと言われている。

それなのに、今回の大震災の後、国はさらに巨大な防潮堤を海岸線に築き、国土を守ると言う。海と共に生活してきた人たちの暮らしはどうなるのか。防潮堤で人々の暮らしが本当に守れるのだろうか。

被災したどの地域でも瓦礫はすっかり撤去されていた。そして今では、さらに、住宅の土台のコンクリートを剥がす作業が進められていた。しかし、海岸沿いのこの地域ではすでに高台移転が決められ、住宅は建設できないことになっている。住民は避難所から仮設住宅に移り住んでいたが、間もなく二年が来るというのに、住宅建設の話は全くと言ってよいほど進んでいなかった。

南三陸町で出合った人は、「私たちにとって大事なのは仕事と暮らしだ。住めなくなった土地の工事よりも漁業設備の復旧と安心して住める住宅建設を急いでほしい」と言っていた。住民の思いは行政に届いているのだろうか。

昨年十二月と今年一月、震災から間もなく二年になる三陸海岸の、青森県八戸から宮城県石巻までの主な村や町、そして、そこで暮らす人たちの体験を取材し、被災者の聞き取りと共に写真約百二十枚の展示(行事案内参照)を予定している。


写真リポート「三陸海岸の街や村はいま―3.11大震災から2年」

3月7日(木)–12日(火)10–19時(最終日は17時)、塚口さんさんタウン3号館5階スペースピボット/入場無料


(2013年3月3日付「兵庫民報」掲載)

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