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2013年2月3日日曜日

ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟裁判傍聴記

副島圀義

大阪地裁一月十七日の法廷は、原告お二人の証言です。

《Mさん》


広島・当時十五歳。広島駅近くの路上(爆心地から二㌔㍍)で被爆。爆風で飛ばされ地面にたたきつけられた。頭に何かが刺さって指が入るくらいの穴が開きひどい出血。歯も六本折れた。応急手当で頭のけがを縫ってもらったが、周りには全身火傷で死んでいく人がたくさんいた。その夜は比治山で野宿。翌朝、自宅のあった方に向かったが焼け野原。両親に会えたのは翌八日だった。

焼け跡にバラックを建て、乾パンや焼け残ったかぼちゃなどをたべ、井戸水を飲んで過ごした。

鼻血や下痢が一月くらい続き、傷口以外でも脱毛。倦怠感が長く続いた。七、八年経ったころ、残った歯が虫歯でもないのに抜けた。

十年前に急性心筋梗塞で手術を受け、現在も通院・投薬治療を続けている。

被爆者への偏見や差別を恐れ、家族にもずっと被爆体験を隠してきた。被爆者手帳の取得も四年前。子や孫まで、尾を引かないか不安だ。

《Sさん》


長崎・当時十二歳。爆心地から二・一㌔㍍の自宅で被爆。ピカッと光ったとたん身体が飛ばされた。近くの防空壕に行ったが、ひどいけがや火傷の人がいっぱいいて恐ろしかった。姉が帰ってこないので翌日、父に連れられて探しに行った。途中、倒れている人に足首をつかまれ、ふりほどけない。父が引っ張ってくれたが、火傷でずるっとむけた手の皮膚が、私の足に貼り付いていた。あまりの怖さで引き返した。姉は焼け野原になった市街地を避け、山越えで帰ってきた。

四、五日目から下痢、耳からの出血、発熱、脱毛などが続いた。

京都の人と結婚した姉の手伝いで関西にきた。姉が嫁ぎ先で被爆者だということでいじめられたと聞き、父からは「被爆したことを誰にも言うな」と言われてきた。

肝機能障害と診断され、父も年をとり、孫もできた、ということで被爆者手帳をとったのが一九八二(昭和五十七)年。その後、慢性肝炎、肝硬変と進行。甲状腺機能低下症にもなった。

昔のことを思い出すとつらく、眠れない。

国側代理人は、Sさんが山口の疎開先から長崎の自宅に一人で帰っていたことに「十二歳で一人で帰れたのか?」など長崎での被爆自体を疑うような尋問。被爆体験を隠し手帳取得が遅れたことにも現れているつらさ・苦しみを分かろうともしない、無神経ぶりでした。

(2013年2月3日付「兵庫民報」掲載)

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