憲法をキーワードに最後のおひとりまで支援つづけたい
日本共産党川西市議 黒田みち
兵庫県日本共産党「東日本救援女性バザー実行委員会」は十一月十五日から三日間、福島県郡山市と宮城県仙台市を二十四名で訪問し、支援活動と視察、現地の方々との懇談を行いました。
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郡山市内・南1丁目仮設住宅での炊き出し(11月16日) |
避難者の声を聞く
一日目は郡山市にある川内村と富岡町の方がお住まいの「南一丁目仮設住宅」を三人一組で三百世帯を訪問。兵庫県産コシヒカリを持って「明日、炊き出しします」と案内しながら現状や要望をお聞きしました。
川内村は「帰村宣言」が出され、引越しされた家や自宅を行き来されている方もあります。しかし、いまだにライフラインは復活しておらず、仕事がなく生計が成り立たないのに帰村宣言されたこと、来年二月に医療費補助が打ち切られるなど見通しがないのに「被災者」でなくなってしまうことへの憤り、不安、展望を持ちたいという願いが切実に語られました。
また、二度目の冬を迎え、仮設住宅の「寒さ」と「狭さ」への訴えは切実です。「もう一年八カ月だからねぇ」という慣れと諦めの言葉となって聞こえ、「子どもの勉強机も置けない」「ここはまだ恵まれた仮設で、お風呂の追い炊きができるが、光熱費の負担が大きい」「知り合いが先の方に居るが足が痛くて会いに行けない。知った人がいなくて寂しい」など日常生活の辛さもこもごも語られました。
被災された方は、もともと、何世代もが同居する大きな自宅で住んでいたり、きれいな湧水を飲んでおられた方が大半です。仮設住宅では、家族が一緒に住めないことや狭い部屋でのストレスがとても大きいこと、水道水がまずいことなど日常が大きく変化しています。とくに高齢者や障がい者、病気がちの方々の生活の大変さが想像できます。
「原発の爆発をこの目で見て十日たってから避難した。なぜ事故の実態が知らされなかったのか」「あの日は、東電から何の放送もなく、何が起こったのか全く教えてくれなかった。避難先で何やら機械で計られたけどその意味もわからなかった」「自分たち住民が後回しにされたことも後からしかわからなかった」「四年帰れない…とか聞くけど帰りたいよ。ほんとに帰れるのか」「家に帰ったけど家の中はもうぐちゃぐちゃだよ。屋根が落ちてる家もあるしね」
―絶対安心だと思っていたのに、前が見えないいらだち……淡々と語られる言葉や懇談のなかで聞こえてきた内容に、現実の厳しさがにじんでいました。
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挨拶する呼びかけ人の安武ひろ子氏(中)と
神山悦子福島県議(左)、
いわぶち友衆院比例東北ブロック候補(右) |
炊き出し
二日目は支援の方も増え、朝から兵庫県特産・揖保の糸のバチにゅう麺の炊き出し、玉ねぎ、じゃがいも、みかん、神戸の水、手編みマフラーなどをお配りしました。良いお天気にも恵まれ、集まった皆さんの笑顔がとっても嬉しく感じられました。
「足の悪い人の分も」とお鍋を持って来てくださったり、「マフラー温かいよ」と首に巻いて見せに来てくださったり、「遠い所から来てくれてありがとう」と声をかけていただいて、兵庫からトラックで運ばれた全ての物が無事「お届け完了」となりました。
津波現場で
三日目は、大津波で被害を受けた仙台市若林区荒浜地区の現場に。家々は見る影もありません。慰霊碑が建ち、飴細工のようなガードレール、折れ曲がった標識。がれきの山だけが目立つ状況が、一年八カ月たった現実であることを目の当たりにしてきました。
住めなくなった家はポツンと取り壊されるのを待っている。広大な田んぼは地盤沈下や塩害でただの荒野。名取市閖上海岸には「ふるさと復興を願って」黄色いハンカチが風に舞っていました。
塩釜港、仙台空港など復旧した所と、まだまだ取り残された地域。この差がなくなり、被災者最後のおひとりが解決するまで絶対に忘れてはならない。支援を続けようと確認しあって帰路につきました。
地震や津波の影響が少なかったにもかかわらず、「東電の放射能漏れ事故」で避難を強いられた地域、新たな「安全神話」と多数の原発労働者など様々な状況の中での苦難が続いています。
「日本国憲法に書かれている生存権とか居住権、財産権って何なんだ?」その問いかけが解決のキーワードとなるでしょう。ここにこだわって政治の中身を変えなければなりません。
(2012年12月2日付「兵庫民報」掲載)