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2012年10月28日日曜日

ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・傍聴記:10/2

副島圀義

十月二日、大阪地裁での原爆症裁判(ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟)で、原告の三人の方が証言しました。

爆心地から1kmで被爆したのに却下


Uさん。長崎で被爆(当時十五歳、爆心地から一km)。難治性貧血症とリンパ球減少症で認定申請。

夜勤明けで寝ようとしている時に被爆。倒壊した家の下敷きになったが必死にはい出た。火が迫って、姉とその下の子は助けることができなかった。姉の「早よ逃げて」の声は忘れられない。姉の上の子は応急処置を受けたが一週間後に死去。母は、全身に紫色の斑点が出、歯ががたがたになって、九月四日に死去。

その少し前から自分も斑点、脱毛、歯茎のゆるみ、発熱で、病院に行っても原因不明。しだいにおさまったが、ずっと体力がなく、風邪を引きやすかった。

一九五九(昭和三十四)年ごろ、大阪にきて靴職人になった。座ってする仕事だからできたが、立ち仕事は続けられない。結婚する前に、日赤病院で「貧血だ」と言われた

二〇〇二(平成十四)年、「前立腺肥大」ということで入院したが、あとでがんだったと分かる。

貧血、リンパ球減少で歩くのもたいへんだが、今日はムリして裁判所に来た。当然認められると思ったのに、申請が却下された。正しい判決を求める。

「積極認定」のはずだった心筋梗塞でも


Mさん。広島で被爆(当時七歳、爆心地から二km)。心筋梗塞で認定申請。

庭で遊んでいて被爆。わき腹にガラスがささったがガラスを抜いて親が止血してくれたと思う。ケガはたいしたことはなく、重油のような黒い雨が降ってきたが遊んでいた。被爆後は父がつくった掘っ立て小屋で過し、敷地内にあった井戸の水を飲んでいた。

八月七日の午後から嘔吐やひどい下痢におそわれ二、三週間続いた。

二十三歳ごろに就職。一九八二(昭和五十七)年に会社の階段を上がるときに胸の痛みを覚え、兵庫医大に入院。心筋梗塞、九九%狭窄との診断でバイパス手術を受けた。以後ずっと投薬治療をうけている。一九九四(平成六)年に狭心症、二〇一〇(平成二十二)年に狭窄で再入院。「心筋梗塞は積極認定」のはずだったのに却下された。審査委員がちゃんと審査する前に、事務方で機械的にやっているのではないか。

八月十五日入市、十八日まで片付けを手伝い


Tさん。長崎で被爆(当時十四歳、八月十五日に入市)。肝細胞がんで認定申請。

学徒動員されていた海軍工廠で終戦を迎えた。動員解除となり、十五日の夜八時か九時ごろ、汽車で長崎に向かうが、道ノ尾駅(爆心地から北へ三km余)で降ろされた。駅周辺には負傷者がたくさんいて、この列車は、折り返し負傷者を乗せて大村海軍病院などに行くのだ、と聞いた。

満員の乗客が降りて長崎市街地の方に坂を下りていくのでいっしょに歩いた。その頃の道はいまのように広くなく、狭い山道で石もごろごろしていた。軍靴が破れて足も痛く、途中で座り込んだまま眠ってしまった。

目が覚めたのは翌十六日の昼近かったと思う。大橋が見えたので松山町のあたり(爆心地直近)だったと思う。あたり一面、墨汁をながしたように真っ黒。

しばらくして長崎医大病院が目に入った。一九四三(昭和十八)年、中学に入学する年の一月に母が亡くなった病院だ。座り込んでずっと泣いていたら、二人のおばさんに声をかけられた。「母と姉を探しに来たが、亡くなったので遺体を焼いたところだ」と聞いた。あまりにも残酷な話で、聞いているうちに日が暮れて、いっしょに野宿。十七日も十八日もおばさんが片付けるのを手伝って過ごした。

結局、十九日に長崎駅までいき、実家(高島)に帰った。

高島に戻る前から水のような下痢が一、二カ月続いた。下痢が収まると脱毛。頭の毛も眉毛も抜けた。

C型肝炎から肝臓がんになり、胆嚢と肝臓の切除手術をし、化学療法を続けている。最近は「心房細動」と言われ、ペースメーカーをいれなければならないかもしれぬ。

認定申請後、厚労省から追加資料の提出を日限切って要求され、それも出したのに二年もたってから却下。いじめではないか。被爆者援護法の精神にもとづいてやってくれ、と厚生労働大臣と首相に抗議の手紙を出した。

「機械的な線引き」繰り返す国側


このような証言に対して国側代理人は、《貧血の原因はがん治療薬の副作用によるものだろう》《心筋梗塞の原因は喫煙だろう》など、いままでの原爆症裁判ですでにくつがえされている「理屈」を持ち出したり、《爆心地近くで三日間過ごしたというが、その場所は間違っていないか》などと証言の「信頼性」をくつがえそうとしたり…。被爆の実相に謙虚に向き合おうとしない、「機械的な線引き」の姿勢にたった質問を繰り返しました。

敗戦で初めて広島・長崎の人々の安否を尋ねることができた

この日の傍聴でもあらためて、「被爆の実相というものを分かったことにしてはならない」と痛感させられたものです。

八月六日、九日とともに、十五日という日の意味も考えさせられました。それまで「新型爆弾でたいへんなことになったらしい」とは伝わっていても、多くの一般庶民にとっては、十五日・日本の敗戦ではじめて、広島や長崎にいる家族、親戚、知人の安否を自由に尋ねることができるようになったのでしょう。

加害の歴史にも、被害の歴史にも、まともに向き合ってこなかった日本の戦後。ノーモア・ヒバクシャ訴訟は、それ自体が歴史の空白を埋める営みでもあると思うのです。

(十月二十四日の医師証言は続報。本文の文責は筆者、見出しは編集部)
(2012年10月28日付「兵庫民報」掲載)

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