自殺者・一家心中も出た首切り
岡井 理一さん(89) 神戸市東灘区
生まれは神戸市兵庫区宮前町です。勉強が好きで関大法学部に入りましたが、7人弟妹の長男だったので、生活のために2年生で中退。神戸市役所理財局に就職しました。20歳でした。
すぐ招集され、広島宇品港からパプアニューギニア島ラバウルへ送りこまれました。一兵卒として敗戦までの4年間、激戦地の南方の島を転てんとし、アメリカ軍の襲撃をはいくぐり、飲まず食わずの毎日でした。
私は航空気象班の受信担当でした。ラジオの入った重い軍用リュックを背負い、ジャングルを逃げまわりました。ハルマヘラ島で8月15日をむかえましたが、班員13人のほとんどがコレラとマラリアで死亡し、生き残ったのは、班長と私の2人だけでした。
1年間の捕虜生活の後、帰還しました。神戸市役所に復職し、生活が落ち着くと、市職員組合青年部の活動に加わりました。仲間に誘われ47年6月、日本共産党に入党。毎晩遅くまで党活動に励みました。
48年末、連合軍最高司令官マッカーサーが指令した「経済安定9原則」に基づき、吉田茂内閣は49年、公務員の大幅削減を断行。これに便乗し、公務員のレッドパージが強行されました。神戸市は49年9月8日付で希望退職者195人、高齢者137人の免職処分を決定しましたが、その前日付でいずれにも該当しない48人の職員に対し「職員としての適格性に欠く」という抽象的な理由で退職を勧告してきました。私もその1人でした。
私を含む28人が「市の退職勧告は不当であり、首を切られる理由がない」と拒否しました。神戸市は翌8日、希望退職者らの発令とともに、28人を一方的な免職処分にしました。
私たち28人は「不当馘首者同盟」を結成し、地労委に救済を申し立てました。しかし運動の展望が見えないなか「被解雇者の組合役員資格を認めない」など、組合からも見放されていきました。
12月、当時の伊藤利勝市会副議長と、市職員組合出身の立花敏夫共産党衆院議員が仲介斡旋にのりだし、私たちは市当局と和解することにしました。和解内容は「依願退職扱いとする」などでした。私はまだ独身でしたが、家族をかかえ、生活苦の仲間が多く、苦渋の決断でした。自殺者、一家心中も出ていました。
失業し1年後、神戸港の倉庫会社に入社しました。約1年後、市解雇の前歴が明らかになり「共産党の活動を一切しない」の誓約書に署名。失職を免れましたが、定年まで昇任はありませんでした。
病弱な母や弟妹の生活が、私の肩に掛かっていました。つらい体験を忘れるように努力し、必死で働きました。そのころ地域党支部が「党活動をしていない。支部会議に出ていない」を理由に離党勧告書を持ってきました。断腸の思いで離党届に署名しました。
10年以上たって、再入党を勧められましたが、いまさらという思いで断ってきました。党員ではなくても「赤旗」「前衛」「経済」は読みつづけています。
再入党はしませんでしたが、東灘後援会の副会長、青木後援会長を務め、国政・県市政選挙を応援してきました。
86年3月、レッドパージ国家賠償要求同盟結成に加わり、事務局長になりました。機関紙「レッドパージ」の編集も担当しました。当時のたたかいは、国会請願が基本で、裁判は方針にありませんでした。その後、兵庫のレッドパージ反対懇談会の事務局を手伝うようになりました。川崎義啓さんら3人の裁判を会計担当として支えています。
写真:「つらい経験を乗りこえてきた」と語る岡井理一さん
(2010年10月24日付「兵庫民報」掲載)